明治時代の抄紙機について調べてみた

切手

 旧小判切手や田沢切手を収集するにあたり、より高度な分類に挑戦しようとすると、これらの切手の用紙を分類することが必要不可欠になる。例えば、旧小判切手であれば旧小判切手の用紙の分類方法を調べてみた、田沢切手であれば田沢切手(大正毛紙)3銭切手の用紙の分類に挑戦してみたが参考になる。

 用紙分類に挑戦する中で頻繁に漉き目や斑点という用語が出てくる事に気がついた。用紙分類に難航しているので、それらが抄紙の工程に置いてどういう意味を持つのかを理解すると、より正確に用紙分類ができるのかもしれないと思いったったので、抄紙工程を調べてみた。

切手が出来上がるまでの工程イメージ

 まずは抄紙を理解するために、切手を作る工程を概念的にまとめるとこのようになる。抄紙はこれらの肯定の5番目になる。

切手の用紙製造工程

 用紙を作った後に印刷をする。印刷する肯定を概念的にまとめるとこのようになる。

切手の印刷工程

タイムライン

 ビジュアル日専 小判・菊切手編に記載の情報を整理すると、いつ、どの抄紙機を使って用紙を製造していたのかが見えてくる。

シリーズ名用紙名称使用年代抄紙機
旧小判切手木綿紙(茶紙)1878年~1880年頃不明
※初の国産紙
旧小判切手木綿紙(粗紙)1880年~1883年初期不明
U小判切手木綿紙1883年~第一号抄紙機
旧小判切手ワラ紙1882年~1884年不明
U小判切手ワラ紙1882年後半~1885年第二号抄紙機
旧小判切手中期白紙1884年~1887年不明
U小判切手中期白紙1884年~1887年第二号抄紙機
第三号抄紙機
旧小判切手後期普通紙1886年~1888年不明
U小判切手後期普通紙1886年~1893年第三号抄紙機
改造第二号抄紙機
新小判切手後期普通紙1888年~1893年第三号抄紙機
改造第二号抄紙機
U小判切手最後期普通紙1891年~第四号抄紙機
用紙抄紙機の関係

国内における抄紙の歴史

 旧小判切手が発行された直後は切手として耐えられる抄紙技術はなく、切手用紙を輸入に頼っていた。その後、官民連携して抄紙技術を立ち上げていくことになるのだが、その当時の動向は東急財団資料 G193で詳しく語られている。文中に記載の抄紙機に関する情報をまとめるとこのようになる。先程のタイムラインに出てくる抄紙機の使用年代とほぼ一致していることがわかる。

 この抄紙機はお札、印紙、切手などと共用されていたので、設置後直ちに切手用途で使用されたかは不明だが、少なくてもこれらの日付以降にそれまでと特徴が異なる、新たな用紙が出現することになる。

抄紙機使われ始めた時期(出典ベース)
1号抄紙機1879年4月:輸入円網抄紙機の模造により「国産の第1号抄紙機を完成」
2号抄紙機1882年6月:「2号抄紙機を据え付けて紙幣などの用紙を製造」
改造2号抄紙機(=円網→長網への改造機)1887年12月12日:「3台の円網抄紙機のうち1台を長網抄紙機に改造」し、この日に完成
3号抄紙機1884年6月:「3号抄紙機を完成」
4号抄紙機(大型抄紙機として新設)1888年(明治21年):最新の抄紙設備をアメリカから購入し、製造設備を一新
名称不明1902年(明治35年):大型抄紙機 1 台の新設
抄紙機が導入された年月日

第1号抄紙機

 この頃、印刷局抄紙部という部署があったらしく、下記の説明のように東急財団資料 G193には有恒社の施設と長網抄紙機で機械製紙を実施、国産の第1号抄紙機を完成させたとある。これが、民間製の旧小判切手・木綿紙や官製のU小判切手・木綿紙にあたると推定される。

1877(明治10)年2月に西南戦争が勃発し、戦局の拡大とともに政府は軍事費の支弁に追われ、抄紙機の購入は望めなくなった。そこで、まず有恒社の施設と長網抄紙機、職工を借りて機械製紙を実施し、1878(明治11)年7月三田製紙所にあるアメリカのライス・バートン社製の円網抄紙機を模造することにした。1879(明治12)年4月この計画は実施され、機械部は国産の第1号抄紙機を完成させた。

 さらに読み進めると、三椏を主原料としたとある。ん??どこかで聞いたような気が。そう、旧小判切手の用紙の分類方法を調べてみたに出てきたワラ紙のことである。

抄紙部では雁皮を原料としたが栽培が難しいことから、栽培が容易で耐久力のある三椏で製造できるよう研究した。その結果、1879(明治12)年三椏を主原料とした手漉き・機械抄きの両方で和紙を生産し、紙幣や公債証書、辞令、株券、債券、軍用地図の用紙として使用した。

 そして、稲わらを原料とする機械漉きに成功したとある。これが中期白紙のことである。

しかし、雁皮や三椏が不足がちなことから試行錯誤して、1878(明治11)年3月29日稲藁を原料とする機械抄きに成功した。

 更に読み進めていくと、下記のような説明があある。これが、明治時代に使われた用紙の特徴を一言で整理できない理由であることがわかってくる。

稲藁の繊維は細短で、紙層の構成が難しいことから繋ぎ紙料として三椏などの繊維を使用した。しかし、多種類の印刷用紙を製造するようになり、ボロも使用することになった。

第2号抄紙機と第3号抄紙機

 東急財団資料 G193を読み進めると第2号抄紙機と第3号抄紙機についても記載されている。第2号抄紙機で作成された普通印刷用紙は民間に販売もされていたとのこと。本題からは外れるが、機械を動かすために人力も利用していたそうだ。

1882(明治15)年6月、2号抄紙機を据え付けて紙幣などの用紙を製造した。同年、印刷局は蒸気機関20馬力1台、15馬力2台で45台の機械、水力で9台、両方で11台、人力で17台の機械を動かした。その後、1883(明治16)年度には364,730貫余りの機械抄紙を製造し、1884(明治17)年6月3号抄紙機を完成させた。

改造第2号抄紙機

 さらに読み進めていくと面白いことがわかる。普通印刷用紙を民間に売却していたら民間の経営を圧迫してしまったので、逆に活版・証券部門で印刷用紙を購入から生産に切り替えたらキャパが足りなくなって、生産効率を向上させるために第2号抄紙機を改造したというオチである。

 注目ポイントは3台の円網抄紙機のうち1台を長網抄紙機に改造したということである。つまり、2台は円網抄紙機がこの時代に於いても利用されていたことを意味し、時々横斑点の用紙が出現した理由につながると思われる。

そこで、印刷局では活版・証券部門で購入していた印刷用紙を生産することにし、3台の円網抄紙機のうち1台を長網抄紙機に改造することにした。これは、1887(明治20)年12月12日に完成した。

第4号抄紙機

 そして、第4号抄紙機の段階で製造設備を一新したようなので、第4号抄紙機以降は抄紙工程としてのばらつきが少なくなったと思われる。

製造設備を一新した。その後、郵便はがきや切手その他の使用量が増加し、これに対応するため1902(明治35)年大型抄紙機1台の新設と紙料調整設備の拡張を行った。

まとめ

 抄紙の歴史を紐解くと、ビジュアル日専 小判・菊切手編に書かれていた、初期と後期の原料比率が変わる話や、突如退化したような横斑点の用紙が出現した理由が歴史のストーリーとして見えてきた。また、抄紙機が多様な用途で使われていたことがわかったことも大きな収穫である。切手という世界だけで見ると木綿紙、ワラ紙、中期白紙といった特徴が見えにくく、未だにこの切手の用紙はこれだという断定ができず困っていたのだが、別の用途での情報を集めるともう少し用紙の特徴が見えてくるかもしれない。別の世界の情報を集めてみようと思う。

 

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